行蔵は我に存す [むかしばなし]
テレビのおかげか、坂本龍馬がたいそうな人気です。
僕も小学生のときは、わけも分からず、まずは龍馬に惹かれました。いまはどうか分かりませんが、当時の小学生はよく「伝記」を読まされたものです。エジソンやキュリー夫人もいいのですが、なにぶん海の向こうの話で、想像力が及びません。やはり龍馬や野口英世といった我が同胞のほうがとっつきやすい。「勤皇の志士」なんてキャッチ・フレーズだけで、具体的に何をやったかも分からないまま、みんな龍馬のファンになっていました。
ところが、或る日、勝海舟の伝記を読んでびっくり!
なんと龍馬の先生だったというではありませんか。何でも攘夷論者だった龍馬は、幕臣の分際で開国論を唱える勝が許せず、内心斬る覚悟で面会を求め勝に会った。勝はそれを見越していて、開口一番、
お前さん、俺を斬りに来たんだろ
ドキッとする龍馬に、地球儀を指差しながら、
この小国がこの大国と喧嘩して、果たして勝てるとお前さん、本気で思うのかい?
その場で龍馬が弟子入りしたという話です。
もちろんこれは晩年の海舟による有名なホラ話ですが、そんなことは小学生にとってどうでもイイコトです。(でも、伝記でウソを書いてはいけませんネ!)
これでもう龍馬とはサヨナラ、それ以来ずーっと勝のファンです。
ただでさえ単細胞なうえに、分別のつかないガキが、「あの尊敬する龍馬が弟子入りするとは、勝という人は・・・」となるのは一瞬のことでした。
(いま一般に語られている龍馬のエピソードの多くが嘘であることについては、加来耕三さんの著書をご覧下さい。)
所帯を持って初めて家を買ったのは、本所割下水、ところ番地で言うと、墨田区亀沢。
勝が生まれたのは本所亀沢町。(こちら、いまの両国です。)
割下水から越してきたいまの家は、赤坂伝馬町。
勝が晩年をすごしたのは、ご存知赤坂氷川町。
まるでストーカーのように、勝のあとを追っかけています。
勝の最大の功績は、なんといっても江戸城の無血開城にあったと信じているのに、なんと、それに真っ向から異を唱えた偉人がいます。誰あろう、福沢諭吉大先生です。(僕は別に慶応の出身ではないので、「先生」呼ばわりする義理はないのですが、何しろお札になってるぐらいですから、やっぱり先生ですネ。)
有名な『痩我慢の説』です。半藤一利の著書から引用しますと、
一言でいえば、たとえ相手がいかなる多勢にして強敵であろうと、国を立てるために痩我慢をはりとおし、断固として抵抗し戦うところに、古来からの日本人の気風がある。それなのに、官軍といったところで一、二の雄藩にすぎない敵に、一片の堪え性もなく幕府軍の総大将が、少々ばかりの利益を重んじて、ただひたすらに和を講じ、へなへなとなって哀れみを乞うとは何たることか。
福沢がこれを書いたのは明治二十四年十一月、数えで五十七歳のとき。福沢より勝は十一うえですから、当時六十八歳。ひと回りも下の俊才に手厳しくやられて、さすがの勝も、
実に慙愧に不堪、御深志忝存候
としおらしく相手を立てています。ところがその後に、こんな一行を付け加えています。
行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候
ひとがどう言おうが、自分の行いは自分がいちばんよく分かっている、ということです。
これはシビレます。
無血開城は西郷と勝という二人の人物が、肝胆相照らして成ったこととはいえ、もちろん勝は「最悪の事態」を想定して、こんな奇策を練っていました。『海舟座談』によれば、
吉原では金兵衛、新門の辰、この辺では権二、赤坂の薬罐の八、今加藤、清水の次郎長、行徳の辺まで手を廻した。松葉屋惣吉、草刈正五郎と八百松の主人などはそれぞれ五百人率いている。公事師の正兵衛、講武所の芸者。吉原の肥った芸者〆・・・
江戸のやくざやテキヤ、河岸の連中、火消したちに話をつけておいて、いざというときには江戸に官軍を全て引き込んで、周りから火をつけて江戸じゅうを火の海にして、官軍を焼き殺そうという作戦です。(火消しは火を消すのが商売で、だからこそ、どこに火をつければいちばん燃えるかをよく知っていました。)
実際に勝は、ロシア軍がモスクワで街をすべて焼いて、ナポレオン軍の攻撃を防いだ話を大鳥圭介としています。
しかし江戸じゅうを火の海にしたら、江戸っ子たちも焼け死んで、本末転倒になってしまいます。そこで勝は、行徳や市川の漁師たちにも手を廻し、ありったけの船を江戸湾につけさせ、江戸っ子たちを船で逃がすことを手配するのです。
まさに、細工は流々仕上げを御覧じろ、といったところです。
勝は晩年、無血開城はひとえに西郷の大人物たるおかげだ、としきりに西郷を讃えますが、果たして本当に西郷の器量だけでなし得たことなのでしょうか。本当に永久革命家の西郷が、勝の人物に感じただけなのでしょうか。
実は西郷を決心させたのはイギリスの存在だといわれています。
西郷と勝の会談は、慶応四年三月十三日の下交渉を経て、翌日十四日、芝田町の薩摩藩蔵屋敷で行われました。ここで西郷は「取敢えず」十五日の総攻撃の中止を命じます。いくら西郷でも、一存で全てを決めるわけには行かず、血を見たくてうずうずしている官軍の連中と協議しなければなりません。西郷は勝との会談の後、京都や駿府で待っている幹部達に話をしに行きます。京都に着いたのは二十日。駿府に着いたのが二十五日です。
駿府に着くと、西郷宛にイギリス公使パークスから手紙が届いていました。
是非会いたいので、江戸へ戻る途中でちょっと立寄ってもらいたい
西郷は嫌な予感がしました。二十八日に横浜のイギリス公使館でパークスに会った西郷は、彼から慶喜の処遇について「圧力」をかけられます。
ご存知のように、当時イギリスは薩摩の「仲間」でした。そのイギリスから釘を刺されたのです。西郷はイギリスが幕府とも握っていることを悟ります。
イギリスが西郷にこのような態度をとったわけは、勝にありました。実は西郷がパークスと会う一日前の二十七日、勝がパークスと会っているのです。
そこで勝とパークスとの間に、いったいどんなやりとりがあったのか・・・・。それは半藤一利の別の著書でご覧下さい。
行蔵は我に存す
実にカッコイイ態度ですが、毅然としてこう言える人というのもまた稀有ではないでしょうか。
(追伸)『痩我慢の説』についてはこちらのブログもご覧下さい。半藤マニア、海舟びいきでない人も安心して読めるフェアな内容です。
僕も小学生のときは、わけも分からず、まずは龍馬に惹かれました。いまはどうか分かりませんが、当時の小学生はよく「伝記」を読まされたものです。エジソンやキュリー夫人もいいのですが、なにぶん海の向こうの話で、想像力が及びません。やはり龍馬や野口英世といった我が同胞のほうがとっつきやすい。「勤皇の志士」なんてキャッチ・フレーズだけで、具体的に何をやったかも分からないまま、みんな龍馬のファンになっていました。
ところが、或る日、勝海舟の伝記を読んでびっくり!
なんと龍馬の先生だったというではありませんか。何でも攘夷論者だった龍馬は、幕臣の分際で開国論を唱える勝が許せず、内心斬る覚悟で面会を求め勝に会った。勝はそれを見越していて、開口一番、
お前さん、俺を斬りに来たんだろ
ドキッとする龍馬に、地球儀を指差しながら、
この小国がこの大国と喧嘩して、果たして勝てるとお前さん、本気で思うのかい?
その場で龍馬が弟子入りしたという話です。
もちろんこれは晩年の海舟による有名なホラ話ですが、そんなことは小学生にとってどうでもイイコトです。(でも、伝記でウソを書いてはいけませんネ!)
これでもう龍馬とはサヨナラ、それ以来ずーっと勝のファンです。
ただでさえ単細胞なうえに、分別のつかないガキが、「あの尊敬する龍馬が弟子入りするとは、勝という人は・・・」となるのは一瞬のことでした。
(いま一般に語られている龍馬のエピソードの多くが嘘であることについては、加来耕三さんの著書をご覧下さい。)
所帯を持って初めて家を買ったのは、本所割下水、ところ番地で言うと、墨田区亀沢。
勝が生まれたのは本所亀沢町。(こちら、いまの両国です。)
割下水から越してきたいまの家は、赤坂伝馬町。
勝が晩年をすごしたのは、ご存知赤坂氷川町。
まるでストーカーのように、勝のあとを追っかけています。
勝の最大の功績は、なんといっても江戸城の無血開城にあったと信じているのに、なんと、それに真っ向から異を唱えた偉人がいます。誰あろう、福沢諭吉大先生です。(僕は別に慶応の出身ではないので、「先生」呼ばわりする義理はないのですが、何しろお札になってるぐらいですから、やっぱり先生ですネ。)
有名な『痩我慢の説』です。半藤一利の著書から引用しますと、
一言でいえば、たとえ相手がいかなる多勢にして強敵であろうと、国を立てるために痩我慢をはりとおし、断固として抵抗し戦うところに、古来からの日本人の気風がある。それなのに、官軍といったところで一、二の雄藩にすぎない敵に、一片の堪え性もなく幕府軍の総大将が、少々ばかりの利益を重んじて、ただひたすらに和を講じ、へなへなとなって哀れみを乞うとは何たることか。
福沢がこれを書いたのは明治二十四年十一月、数えで五十七歳のとき。福沢より勝は十一うえですから、当時六十八歳。ひと回りも下の俊才に手厳しくやられて、さすがの勝も、
実に慙愧に不堪、御深志忝存候
としおらしく相手を立てています。ところがその後に、こんな一行を付け加えています。
行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候
ひとがどう言おうが、自分の行いは自分がいちばんよく分かっている、ということです。
これはシビレます。
無血開城は西郷と勝という二人の人物が、肝胆相照らして成ったこととはいえ、もちろん勝は「最悪の事態」を想定して、こんな奇策を練っていました。『海舟座談』によれば、
吉原では金兵衛、新門の辰、この辺では権二、赤坂の薬罐の八、今加藤、清水の次郎長、行徳の辺まで手を廻した。松葉屋惣吉、草刈正五郎と八百松の主人などはそれぞれ五百人率いている。公事師の正兵衛、講武所の芸者。吉原の肥った芸者〆・・・
江戸のやくざやテキヤ、河岸の連中、火消したちに話をつけておいて、いざというときには江戸に官軍を全て引き込んで、周りから火をつけて江戸じゅうを火の海にして、官軍を焼き殺そうという作戦です。(火消しは火を消すのが商売で、だからこそ、どこに火をつければいちばん燃えるかをよく知っていました。)
実際に勝は、ロシア軍がモスクワで街をすべて焼いて、ナポレオン軍の攻撃を防いだ話を大鳥圭介としています。
しかし江戸じゅうを火の海にしたら、江戸っ子たちも焼け死んで、本末転倒になってしまいます。そこで勝は、行徳や市川の漁師たちにも手を廻し、ありったけの船を江戸湾につけさせ、江戸っ子たちを船で逃がすことを手配するのです。
まさに、細工は流々仕上げを御覧じろ、といったところです。
勝は晩年、無血開城はひとえに西郷の大人物たるおかげだ、としきりに西郷を讃えますが、果たして本当に西郷の器量だけでなし得たことなのでしょうか。本当に永久革命家の西郷が、勝の人物に感じただけなのでしょうか。
実は西郷を決心させたのはイギリスの存在だといわれています。
西郷と勝の会談は、慶応四年三月十三日の下交渉を経て、翌日十四日、芝田町の薩摩藩蔵屋敷で行われました。ここで西郷は「取敢えず」十五日の総攻撃の中止を命じます。いくら西郷でも、一存で全てを決めるわけには行かず、血を見たくてうずうずしている官軍の連中と協議しなければなりません。西郷は勝との会談の後、京都や駿府で待っている幹部達に話をしに行きます。京都に着いたのは二十日。駿府に着いたのが二十五日です。
駿府に着くと、西郷宛にイギリス公使パークスから手紙が届いていました。
是非会いたいので、江戸へ戻る途中でちょっと立寄ってもらいたい
西郷は嫌な予感がしました。二十八日に横浜のイギリス公使館でパークスに会った西郷は、彼から慶喜の処遇について「圧力」をかけられます。
ご存知のように、当時イギリスは薩摩の「仲間」でした。そのイギリスから釘を刺されたのです。西郷はイギリスが幕府とも握っていることを悟ります。
イギリスが西郷にこのような態度をとったわけは、勝にありました。実は西郷がパークスと会う一日前の二十七日、勝がパークスと会っているのです。
そこで勝とパークスとの間に、いったいどんなやりとりがあったのか・・・・。それは半藤一利の別の著書でご覧下さい。
行蔵は我に存す
実にカッコイイ態度ですが、毅然としてこう言える人というのもまた稀有ではないでしょうか。
(追伸)『痩我慢の説』についてはこちらのブログもご覧下さい。半藤マニア、海舟びいきでない人も安心して読めるフェアな内容です。
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